前回のブログ「ワークショップ」としての振り返りに続き、世田谷パブリックシアターで行なわれた地域の物語ワークショップを「作品」としての振り返りをします。
このワークショップは「市民劇」を作るものと位置づけられると思います。
今現在の市民劇のスタンダードは、既存の台本を使って作品を作るというものではなく、参加者が取材したり、そのテーマに向き合って自分たちで台本も作っていくというものが主流といってもいいでしょう。進行役(演出家・劇作家)の人はその方向性を示したり、まとめたりしていきます。
演劇というと演出家がどなりつけて稽古をつけるようなイメージがあったのですが、そんなことはありません(笑)
このイメージはかなり昔のものらしい。
真剣さの中にも和気あいあいとして雰囲気でワークショップは行なわれました。
※写真はすべて通し稽古のものです。
今年の地域の物語のメインテーマは「みんなの結婚」というもので、3コースが同時並行で進んでいました。
Aコースは「私の結婚」というサブテーマで、劇作家・演出家・俳優の吉田小夏さんが担当で演劇制作の進行役を、
Bコースは「100の結婚」というサブテーマで、劇作家・演出家の瀬戸山美咲さんが担当で演劇制作の進行役を、
そして、僕が参加したCコースは「ふたり」というサブテーマで、振付家・ダンサーの楠原竜也さんが担当でダンスの進行役を担いました。
作品としてはこの3つを1つの作品として発表するというもの。
小学校の時にやった学芸会や学習発表会とも違う趣です。
(最近では、劇場が学校にアーティストを派遣する事業があったりするので、見応えのある素晴らしい学芸会もあったりします。以前に富士見ヶ丘小学校に見学に行かせてもらい感動しちゃいました。ちなみに世田谷区もパブリックシアターが学校にアーティスを派遣する事業をやっています。ちなみに世田谷美術館もそんなことをしています。)
それは進行役がアーティストだからでしょう。
僕はこのワークショップの醍醐味のひとつは、アーティストと普通の人たちのふれあいだと思っています。
街を歩いていも奇抜な人には会うかもしれないけれど、まずアーティストに出会うことはありません。
アーティストって変な人なんじゃないかと偏見を持っていたのですが、いたって常識ある普通の人たちでした。
舞台芸術に真剣に向き合って作品を作っている優しい人たちです。
その道の専門家なんです。
そして、集まってくる人たちも、ある意味で他分野の専門家です。
「私、ただの普通の人」という言い方をする人も多いんだけど、生きてきた分だけ自分自身の専門家です。
誰も他の人の人生を味わうことができないので、来る人がすべて特別な人たちでもあるんです。
経験がみんな違うからね。
集まってきた人たちの経験も大切にして作品を作るのが、今回の地域の物語ワークショップです。
僕の参加したのはダンスのCコースでした。
この「ダンス」というのも既存のダンスの概念とは違います。
「リズムにのって振り付けを覚えて踊る」というものではなく、「その人の体からでてくる動きから、動きを作る」というものなんです。
体の動きそのものがダンスというとらえかたなんです。
ダンスというよりもパフォーミングアートという言い方が適切かもしれません。
この体の動きも2人で行なえばペアダンスにもなるんです。
相手を感じて動くだけでダンスになります。
自然とお互いに自由に動いていても呼応して影響しあいますし。
さらに言っちゃえば、立っているだけでダンスなんです。
この立っているだけでも興味深く見ることができるんです。
そこに何が見えるのか・・・
その人の今まで生きてきたすべてが見えるのです。
体の形、体の使い方、くせ・・・それは体を鍛えたのかもしれないし、怪我をしたのかもしれない。また、慢性的に何かあるのかもしれない、生まれつきなのかもしれません。
今までの履歴すべてがそこに詰まっています。
立っているだけでその人の人生をさらけだしているのです。
心理セラピストという職業柄、その人がどんな人かを見るスキルは訓練して身につけています。人相学から姿勢分析まで普段は使っていて、僕は問題解決や夢を実現する手段として使い、演劇は表現の手段として使うのです。この辺りを研究したくて演劇を学んでいたりもします。
作品「ふたり」の中の台詞で「ふたりの関係性は、距離と視線だと感じました。」というものがあります。
パートナーシップや人間関係を扱うセラピーの中で距離と視線を使ったりもするので、異分野から学ぶことも多いですね。
作品の作り方がユニークでした。
- 町中のふたりを観察して、それを動きや詩としてを発表する。
- ふたりから連想する、振りを作る。
- など。
他人を観察して、自分の体を一旦通して表現をする。
自分の記憶から、自分の体を通して表現をする。
表現手段は自分の体だけ。または、言葉。
この言葉も自分がどんな言葉を選ぶかはその人自身がでてきます。
他者を見ていても自分を観ていることにしかならないのです。
その動きを進行役が一旦自分の体に入れて動きを作る。
進行役のセンスでどの動きが選ばれるのかが興味深いです。
きっと、その人らしい動きを選んでいるのではなかろうかと。
「えっ!それなんだ!」という新鮮な驚きがあったり、「あぁ、いつもそうだよね」という納得感があったり、「そんな動きしていたっけ」という意識していないものがあったり、この辺りがアーティスの腕というか真骨頂なんでしょうね。
そして、その動きを、自分で再現していく。さらにはそれを全員でやったり。
整理すると・・・
他者の動き(非観察者)→自分の動き→他者の動き(芸術家)→自分の動き→他者の動き(参加者全員の動き)
と「動き」が他者と自分を行き来する。
この一連の作業で、動きがだんだんと抽象化されていくんです。
つまりは動きが自分から離れて普遍性を持っていく。
ダンスのルーツを見ているかのようです。
見ているととっても面白くて、みんなダンスの振り写し(そっくりマネること)ができないんです。
ほんとものの見事に同じ動きがみんなできない。
これは技術的な問題なんです。
ダンサーは見た動きを自分の体をコントロールしきって動かすことができるんですが、普通はできません。
僕らはどんな動きも個性的な動きにしかならないんです(笑)
これはこれで面白いんだけど、群舞を踊る時には足かせにもなったりします。
同じ動きをすることで、その上にその人の個性が表現されることが消えてしまうから。
同じ動きをするからこそ、個性が際立つこともあるのです。
「適当にやりますよ。なんとかなりますよ。」という参加者がいました。
その方にゲネプロが終わった後、アシスタントが「それじゃダメ!」と今までにない強さで言い、振りを徹底的に練習をしたんです。
そうしたらね、その「適当にやる」と言っていた人の動きが輝きだしたんです。
魅力が全面に現れてきたんです。「うわっ!」と思わす驚きました。
それを見ていた仲間が一人一人とそのダンスの輪に加わり、見事な群舞ができあがっていきました。
もちろん、僕もその輪に自然と加わっていきましたよ。
これも集団で踊る群舞の原型なんでしょうね。体験から学ぶことほんと多いです。
僕は物事の本質を知りたいし解明したい人なんです。こんな気づきが生まれるともうワクワクがとまりませんでした。
全体アドバーザーのなるさんから「あなたは、振りや段取りはすでに踊りを覚えていて、舞台上で楽しんでいるねぇ。」と言われました。
今回は自分でビデオを撮ったり、自分で音楽を分析したり、自分で踊りも書き出したり、自分で段取りの表を作ったりしました。
誰かが作ったものを自分自身の手で整理してみたのです。
そうしたら覚えちゃったんです(笑)
舞台に上がるのは3回目なんです。舞台は覚えたらゴールだと思っていました。1回目の青年団の演劇入門というワークショップで演劇をやった時には、ほとんどみんなそんな感じでした。それが精一杯。そのせいかイマイチやり残し感があったんです。
今回は、覚えた先に世界が広がっているんだという経験をしたのです。
演出が入っても楽しい、段取りが変わっても楽しいんです。
何が楽しいかといえば、ちょっとしたことで、場の雰囲気が全く違うものになるからです。
小さな変化が大きな結果を生むのを目の当たりにすると、やっぱりそういうもんなんだなと納得できたんですよね。
「台本を覚えてからが本当の演劇が始まる」という言葉はおぼえていたんですが、楽しい世界は基本を覚えてからなんですね。
作品作りから上演するまで新しい世界がたくさん見えました。
自分の中に眠る可能性や才能を引き出すのに演劇的な技術はとても役立ちます。
最後の舞台は、もう演者も観客も緊張感がすごかったんじゃないかな。
人間そのものが持つ質感をそのままぶつけたような舞台だと思っています。
人間力勝負というのでしょうか。
人と人が出会って向き合う。それだけで何かが伝わったんじゃないかと。
外国でも通用するんじゃないか。そんな感想をアシスタントの方から言葉をいただいたり。
自他ともに最後の本番が一番良かったというピークを最後に持ってきてくれたのも進行役の手腕なんでしょうね。
見てくれた人がどんな感想を持ったのか。
「なんだこれは!醜悪だ!」と思ってくれたら幸いです。
多分、そうなんじゃないかと(笑)
地域の物語のワークショップで「芸術」の素晴らしさを知れたことは人生の宝になりそうです。
誰もが芸術にふれ、自分でやってみる経験を1度でもするといいんじゃないかな。
表現を見る側から表現をする側へ
以上です。
“地域の物語〜みんなの結婚「作品」としての振り返り” への1件の返信