世田谷パブリックシアターで地域の物語を観劇してきました。
去年、一昨年とワークショップの参加者として舞台に立って観られる側でした。
今回は、舞台を観る側での参加?です。
ところで、みなさん、「介護」と「介助」の差って知っています?
英語ではケアで同じだそうですが、日本では明確な違いがあるそうです。
それは選択権です。
介助は、介助される側に選択権があります。
介護は、介護する側に選択権があります。
これが知れたことが観劇をして一番の収穫でした。
どちらの意志なのかはとても大事なことです。
支援をする側の意志なのか、支援をうける側の意志なのかはとても重要なんだと思うんです。
アメリカは基本的に自立をしている国なので、ケアでいいのかもしれませんね。
する側、される側というのは、今回の地域の物語で観られる側から観る側に変わったことも関係していて、僕の中では興味深い洞察が深まっています。
大切なのは対等性です。
とくにされる側が罪悪感を感じずに相手に委ねることができるのか、
遠慮なく頼れるかどうかなのかということです。
そこが最大のポイントですね。
今回、観劇をしていての一番、心に響いたのは・・・自立の話。
自立をしている、自立をしていない人の話が僕のライフワークのひとつです。
自立の反対は、依存というのが僕の定義。
子供のが小さい時に親がいないと生きられないような状態は、子供が親に依存をしている状態。
それが思春期になり、反抗期がきて、少しずつ親離れをしていき、自立をする状態。
さらに自立した大人になり次のステージがあります。
自立した大人同士が共に助け合う、相互依存のステージです。
ちなみに、どちらもいなければならないのは共依存の状態で、これは不健全です。
相互依存は共同創造とも呼ばれていて、社会を作り出す仲間として協力しあう関係性です。
今回、自立をテーマにしている人たちで思ったのは、自立をしたくないから自立をしていないのではないのか。
そして、依存していることに対して罪悪感を感じていたりするのが問題なのではないか。
そんなことを感じたのです。
僕にとって自立している大人は、キラキラと輝いているように見えます。
この自立とは、なんでもかんでも自分でやるという意味ではなく、自分がやることを自分で選択している、ということなんです。
ここでも選択というキーワードがでてきました。
自分の人生の舵取りを自分でしているのが自立。
他人まかせにしたり、放棄している人は自立していない人なんです。
介助する人も自立をしている。
介助される人も自立をしている。
そこで初めてお互いが対等になれるということですね。
対等を誤解する人がいますが、対等とはお互いが同じという意味ではありません。
お互いの違いを認めあうというのが対等です。
ちょっと僕は介助される側になった時のことを想像しました。
人間的な成熟度がないと介助を心地よく受けることができない自分がいました。
人から助けてもらうというのは僕のテーマでもありますね。
僕にとって、恥をかきながらも、どんどん人に頼ることが大事なのです。
対等性というのは、自己成長にもつながる大事なキーワードです。
そんなことを思った地域の物語の観劇の感想です。
みんなお疲れさま。
一緒に舞台を創った仲間の舞台を見るということに面白さを知った時間でした。
終演後のロビーは同窓会みたいな懐かしい顔にお会いできて嬉しい時間でもありました。
劇場が出会いであり、交流が続く場というのが興味深いね。