権威との葛藤(その2)

権威との葛藤とは、権威を持つ人に敵意を持つことです。

そのことで良い子をやったり悪い子をやったりするという話を前回しました。

権威に対して最初に敵意を持つ人は、父親という人が多いです。

父親とは権威や社会の象徴であるからです。

父と子

古今東西でよく聴く話は、息子が父親に反感を持つというものです。

 

これを感じたことがある人は多いのではないでしょうか。

もちろん、父親に反抗して、「絶対に、あぁはならない!」と思っていたこともあります。

すると不思議になもので父親に似て来るんですね。

父親に似て来るのです。同族嫌悪が生まれてさらに嫌いになったりします。

これをさらに深くみていくと、父親も祖父に対して反抗していたことがあることが多いです。

男性の親子関係で受け継がれている習慣とでもいうのでしょうか。

感情も深い所では、好きも嫌いも同じなのです。

好きという感情のポジティブなエネルギーを相手に送るか、嫌いというネガティブなエネルギーを送るかの差で、エネルギーの質は同じなのです。

ここでいうエネルギーというものは感情のエネルギーで、ニュートラルで、ポジティブでもネガティブでもありません。

その人の解釈でポジにもネガにもなるのです。

権威との葛藤あれば、それはもちろんネガティブに働きます。

権威に媚びを売るか反逆するか。

 

父親との葛藤を癒すには、父親という役割を理解したり、父親の前に一人の男性として受け入れることが大切になってきます。

そのためにもコミュニケーションが大切になってきます。

イラッと来ても話をしてみることが大切です(笑)

そうやって少しずつ葛藤を癒していく必要があります。

僕もたくさんのセラピーを受けたりして自分を癒しながら少しずつ距離を近づけていきました。

 

父親との葛藤は癒したのだけれど、次に待っていたテーマがあったのです。

父親の先にある存在。社会です。

 

権威との葛藤の連載はコチラ

  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

権威との葛藤(その1)

「権威との葛藤」という大きなテーマが心理学世界ではあります。

これは特に仕事やリーダーシップに大きな影響を与えます。

「権威との葛藤」をシンプルに言えば「権威を持つ人に敵意を持つ」ことです。

例えば、

  • 親が悪い
  • 上司が悪い
  • 組織が悪い
  • 社会が悪い
  • 日本が悪い
  • 世界が悪い

というような自分よりも権威を持っている人や何かに対して反発している状態なのです。

反抗期というのは、自分以外の権威を否定することに始まります。

自立をしていくプロセスで必要なエネルギーでもあります。

 

「ならば、いいじゃないか。」と思われますが、問題もあるのです。

自分が他者の権威に敵意を持っている、自分が権威を持った時に誰かに敵意を持たれるのではないか、という恐怖を心の奥底で感じているのが問題です。

この恐怖は気付いている場合もあれば、気づいていない場合もあります。

権威に対して敵意が強ければ強いほど、自分が権威を持つことを恐れる。

だから、権威を持つことをしないということが起きるのです。

無意識に権威を持たない選択をし続けるのです。

するとどうなるか?

自尊心がなくなっていきます。

自分自身の権威をも否定しまうからです。

権威との葛藤

 

権威との葛藤があると、権威がある人たちに反抗的になります。

いい子として反抗するパターンと悪い子として反抗するパターンがあります。

悪い子は権威を攻撃するからわかりやすいですね。いい子は自分を攻撃しているので、一見わかりずらいです。

攻撃をするという点では同じです。

権威に対して反抗するというのは、非建設的です。

簡単な反抗は、権威のすべてを否定すればいいのです。

対話の余地すらなく反抗していればいいのです。

 

自分がリーダーシップを発揮して、権威を持つ時に問題が生じます。

リーダーシップを発揮しようとしないのです。

リーダーを攻撃してきたので、自分自身がリーダーになりたくないんです。

だって、自分が攻撃してきた時のように攻撃されると思うから。

 

リーダーの本質は、自ら与える人です。

誰もがリーダーシップを持っているし、発揮する必要があるものです。

特に仕事は、誰かに喜びを与えて、その報酬としてお金を頂きます。

喜びはモノであったり、サービスであったり、様々なものです。

人間関係でもそうですね。愛を与えるのもリーダーシップです。

 

権威者に反抗するだけでなく、自らが与えない選択をしている状態も権威との葛藤していることになるのです。

 

では、どうしたらいいのでしょう?

僕の体験を通じて話していきます。

■権威との葛藤の連載はコチラ

  1. 権威との葛藤(その1)
  2. 権威との葛藤(その2)
  3. 権威との葛藤(その3)
  4. 権威との葛藤(その4)
  5. 権威との葛藤(その5)

サンタクロースはいるんだ

クリスマスになると思い出す新聞記事です。

Dozens of Santa Claus came to Xmas party at Amo-san's house!

ニューヨーク・サン新聞 1897年9月21日

社説欄 本紙は、以下に掲載される投書に対してただちにお答え申し上げるとともに、このようにまっすぐな方が読者におられることを、心から嬉しく思います。

「こんにちは、しんぶんのおじさん。

わたしは八さいのおんなのこです。じつは、ともだちがサンタクロースはいないというのです。パパは、わからないことがあったら、サンしんぶん、というので、ほんとうのことをおしえてください。サンタクロースはいるのですか?

ヴァージニア・オハンロン」

 ヴァージニア、それは友だちの方がまちがっているよ。きっと、何でもうたがいたがる年ごろで、見たことがないと、信じられないんだね。自分のわかることだけが、ぜんぶだと思ってるんだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子どもでも、何もかもわかるわけじゃない。この広いうちゅうでは、にんげんって小さな小さなものなんだ。ぼくたちには、この世界のほんの少しのことしかわからないし、ほんとのことをぜんぶわかろうとするには、まだまだなんだ。 じつはね、ヴァージニア、サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものがあふれているおかげで、ひとのまいにちは、いやされたりうるおったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、ものすごくさみしいことなんだ。サンタクロースがいないってことは、子どものすなおな心も、つくりごとをたのしむ心も、ひとを好きって思う心も、みんなないってことになる。見たり聞いたりさわったりすることでしかたのしめなくなるし、世界をいつもあたたかくしてくれる子どもたちのかがやきも、きえてなくなってしまうだろう。

サンタクロースがいないだなんていうのなら、ようせいもいないっていうんだろうね。だったら、パパにたのんで、クリスマスイブの日、えんとつというえんとつぜんぶを見はらせて、サンタクロースをまちぶせしてごらん。サンタクロースが入ってくるのが見られずにおわっても、なんにもかわらない。そもそもサンタクロースはひとの目に見えないものだし、それでサンタクロースがいないってことにもならない。ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。ようせいが原っぱであそんでいるところ、だれか見たひとっているかな? うん、いないよね、でもそれで、ないってきまるわけじゃない。世界でだれも見たことがない、見ることができないふしぎなことって、だれにもはっきりとはつかめないんだ。

あのガラガラっておもちゃ、中をあければ、玉が音をならしてるってことがわかるよね。でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。すなおな心とか、あれこれたくましくすること・したもの、それから、よりそう気もちや、だれかを好きになる心だけが、そのカーテンをあけることができて、そのむこうのすごくきれいですてきなものを、見たりえがいたりすることができる。うそじゃないかって? ヴァージニア、いつでもどこでも、これだけはほんとうのことなんだよ。

サンタクロースはいない? いいや、今このときも、これからもずっといる。ヴァージニア、何ぜん年、いやあと十万年たっても、サンタクロースはいつまでも、子どもたちの心を、わくわくさせてくれると思うよ。

※ そのあと、ヴァージニアはニューヨークの学校の先生になって、四七年間子どもたちを教えつづけたそうです。

Yes, Virginia, There is a Santa Claus
サンタクロースはいるんだ
The New York Sun (written by Francis Pharcellus Church) 
ニューヨーク・サン紙社説(担当:フランシス・ファーセラス・チャーチ)
大久保ゆう訳

メリークリスマス!


焼きおにぎり

今日、昨日残ったご飯で焼きおにぎりを作った。

焼き網に冷えたおにぎりを置く。

醤油はハケなど使わずにそのままかけてしまう。

白いご飯と醤油ご飯がまだらになっているのが美味いのだ。

懐かしい味だなぁと食べる。

あぁ、これは母親が作ってくれた焼きおにぎりの味だ、と思い出す。

子どもの頃に食べたものが美味いと感じる。

味付けは母親の味付けにそっくりだ。

特に習ったわけでもないのに、おふくろの味は伝承されている。

母親が亡くなって18年。今日が命日。

偶然なのか必然なのか。

親の影響がありがたいと思える歳になったんだなぁ。


自分の現実を創っているのは自分なのです。

僕はこの言葉に衝撃を受けた。

「自分の現実を創っているのは自分だって?」

世界は生まれる前からあったし、僕がいてもいなくても動いているものだと思っていた。

自分を見つめているうちに「本当に創っているかも」と思ってきた。

だって、その人に感じているストレスを外すと、嫌いな人がどうでもいい人になったりするんです。

どうでもいいとは、ほとんど気にならなくなったりするんです。

ましてや、関係性が良好になっていったりしたんです。

Time Jumper

それでも、自分で現実を創っているとは思えませんでした。

この言葉は実に奥が深くて、時おりパラダイムシフトが起きる。

「あぁ!」という気づきで、言葉に対する洞察が変わっていくのだ。

 

「好きなこと仕事にしたいなぁ」

「この人と結婚したらどうなるんだろう。」

そんなことを思っていたら、現実にそうなってしまった。

 

これも段階があって、このぼんやりとしたイメージからスタートして、自分を見つめたり行動したりしているうちに、イメージがさらに明確化していく。

イメージのはじめはピントがあっていない写真みたいなもの。

それでもエネルギーをかけていくとピントがあってきて、

「あぁ、こういう現実を求めているんだ!それやりたい!」

と見えてくることがあるんですよね。

 

それを次々に実現していっても「自分の現実を創っているのは自分なのです。」という言葉は「そうかもね。そうだよね。」と思っているくらいでした。

 

とある時にメンターと話をしていて「僕はいつでもお金を作れるし、その気になったらすぐになりたいものになれるんです。」と話をされました。

本当に、これをやりたいと思ったらどんな方法を使っても実現する人でした。

その時に頭の中の配線がガガガっと音を立てて変わった気がしたのです。

「自分の現実を創っているのは自分なのです。」

という言葉がわかったんです。

本当にそうだ!その人が現実を創っているんだ!ということがわかったのです。

 

言葉にすると単純で、

「できないと思っている人はできないし、できると思っている人にはできる。」

ということなのです。

 

認知心理学的にいえば、物事を見ているのは人それぞれなんです。

誰もが同じ世界を生きていると思っているだけで、実際には、その人が見たいように世界を見ているだけです。

本当の現実なんていうものはないのです。

みんな自分が見たいように見ているバーチャルな世界なようなものです。

 

だとしたら・・・自分が現実を創っているということを認めたとしたら・・・自分の人生を自由自在に変えることができるのです。

そこにはルールがあって、変えることができることと、変えることができなことがある。

ゲームはルールがなければ成立しないし、面白くないのです。

変えることができないことは受け入れる知性が必要だし、変えることができることは変えたければ変えるようにすればいいのです。

自分の現実を創っているのは自分なのです。

この一文に魅せられて、ずっと人の不思議を探求していくのだろうなと思った朝でした。

今日も良い1日を!


才能心理学

今年、学んだことのひとつに才能心理学があります。

6ヶ月かけて才能とは何かを徹底的に学びました。

そこで得た結論は、

「特別な才能は必要ない。」

ということ。言い方を変えれば、

「誰にでも才能はある。」

ということ。

 

才能はその人の生まれてきた環境、境遇、経験が関係しています。

恵まれていた「ある」こと、恵まれていなかった「ない」ことに注目します。

「ある」人は、その良かったことを広めようとする人、

「ない」人は、なかったことをあることにしようとする人です。

「ない」状態から「ある」状態に変える物語を歩むことになります。

これは英雄物語と同じですね。

 

6ヶ月の講座をまとめた1日集中セミナーのお手伝いをしてきました。

才能心理学1日集中セミナー

講座の裏方をやるのはめったにないので勉強になります。

基本セミナーでは集中するために前に座るし、講師の立ち位置に慣れているのもあります。

後ろから見て、全体に気を配りモードになるとプロデューサー目線になります。

虫の目、人の目、鳥の目といいますが、様々な視点で講座を見ています。

ちなみに虫の目はレンズで拡大して細かい所を見る目線であり、人の目は等身大の目線であり、鳥の目は俯瞰して大局を見る目線です。

セミナー運営、プロモーション・・・様々なことを学びました。

肝心な講座は・・・うん、新しい自分で世の中と関わっていきます。

 

講座で改めて、人の才能を見つける才能あるということを確信しました。

これも言葉を変えると、他人の才能に興味を持っているということです。

人の観察は大好きだし、モノマネも好きだし、人の心理も大好きだし、人の動きだったり、無意識だったり、もう才能は僕の興味の宝庫です。

才能って比較の問題です。自分1人で生きているなら才能があるとかないとかいう話はでてきません。

多くの人の中にいるとその人の特徴が見つかるのです。

全員がロボットみたいに同じではなく、人間というはバラツキがあるんです。

それが特徴。特徴だから、良い面と悪い面はもちろんあります。

良い面は良い面として使い、悪い面を良い面として使うと才能と呼ばれるものになります。

 

来年はさらに、才能を発見して、世の中にデビューするお手伝いをしていきますよ。

半年コースを作りましょう。

才能心理学の北端さんの目線も取り入れつつ、僕の目線を大事にした講座にしていきます。

多くの人から見ている視点が違うと言われるのだけれど、自分ではわからないんですよね。

だって、持って生まれたものだから。

才能を見つけあう講座にしたいですね。

 

才能心理学を知りたい人は、
北端 康良(著) 自分の秘密 才能を自分で見つける方法
を読むことをおススメします。

過去の偉人の文献を調査して、才能心理学目線で語っています。


ホリスティック医療から統合医療へ

WHA(ワールド・ホリスティック・アソシエーション)でセミナーをしました。

新潟でのセミナー(連携する医療WHA)に続いて今回は東京開催でした。

以前からそうなんですが、集まる人によって講演の内容が変わります。

情報を伝えることよりも情報をいかに活用していくかに時代の流れは向かっています。

それも今までの自分の経験をふまえて未来の自分を創り出すように頭だけでなく腑に落とすことが大事になります。

参加者どうし、講演者どうし、講演者と参加者・・・場にいる人すべてが参加しているようなセミナーが好きですね。

新潟とやっぱり内容は違います(笑)

 

僕が心に響いたのは「心とは何か?」ということ。

辞書で調べると・・・

 人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。また、働きそのものをひっくるめていう。精神。心情。

とある。

ふむふむ。わかったようなわからないような。

 

では、「心がない」ものって何でしょうか?

さらには、「心がある」ものって何でしょうか?

考えてみて下さいね。自分で考えることで見えてくるものがあります。

 

人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。」を見て見ると、働くという言葉がでてきます。

この感じを分解すると「イ」と「動」というように分解できます。

「イ」は「人」を表します。つまり「人が動く」ということですね。

心というのは人が動くということなんです。

 

WHAでは復興支援もしています。「心の復興支援」をする時に、それは何だろう?と自問したそうです。

心の支援とは、「相手が動けるように支援すること」という定義を付けました。

これが一番大切なことです。自分が動いて何かをするのはなく、相手が動けるようにサポートしていくこと。

お金やモノや情報を与えるのではなく、その人がそのお金を得たいとと動けるようになったり、モノが欲しいと動けるようになったり、情報が欲しいと動けるようになることなんです。

一方的に与えられているだけというのは、飼われているようなもの。

人間の尊厳が奪われていきます。

自分から欲しいと望むことが人間である証なのかもしれません。

 

僕の講演のテーマは「健康で生きるために大事なたったひとつのこと」でした。

ブログを読んでくれている方にはバレバレなのでしょうが、この答えは「ワクワクすること」です。

では、「ワクワクする」ためには、どうしたらいいでしょうか?

答えのひとつは、「夢」を持つことです。

夢の本質は心です。自分が自発的に動きたくなるような夢を持つことです。

心が動きたくなるというのは「感動」でもあるのです。

「夢」には「感動」がつきものですね。目に見えないけれども確実にあるものなんです。

誰もが夢を持っています。持っていないという人は、忘れているだけなんです。忘れさせているという場合もあります。

夢を持てない状態というのは、元世界銀行の副総裁をされていた西水さんの著書を読んでいてわかりました。

毎朝、水をくんで、次は何をして・・・それを毎日毎日繰り返す生活。そして、自分の子供たちも同じことを繰り返していくイメージしかできない。

これは人間の生活ではなく、ただ動物のように生命を維持して生きているだけという状態。

「想像してごらん」とあるミュージシャンは言っていたけれど、夢を想像ができるというのは、人間が人間であるために必要なんですね。

ある政治家は「私には夢がある」言っていました。

希望がある未来を夢見ることが、健康な人間なのです。

自ら動きたくなるのが人間なんです。

 

そんな話をさせてもらい、最後にみなさんの夢をシェアしていただきました。

筋反射を使って確認したので、よりその人らしい夢がでてきて、人それぞれに宿る夢ってやっぱり素晴らしいなと思いました。

個人的な夢であろうが社会的な夢であろうがどっちでもいいのです。

自ら動きたくなる夢が大切なんですね。

 

タイトルの「ホリスティック医療から統合医療へ」への前置きが長かったですね。

これは、日本でのホリスティック医療への試みが海外のものとは違い誤解されて入って発展してしまったという話がでてきたのです。

これからは統合医療になっていくという話でした。

 

言葉の定義をちょっとだけ紹介しておきます。

代替医療
世界各地で古くから用いられている伝統医学、民間療法などの、現在主流の西洋医学以外治療法を総称して呼んでいる。英語の Alternative というのは「代わりの」という意味である。「現状に替わり得る」という事で使われている。ただし「西洋医学にとって替わるというものではないという事で Complementary つまり補完医学という言い方もある。

ホリスティック医療
病気は何らかの働きかけによって、患者自身の自然治癒力が活発になり癒されるものであるという全体論的な考えに基づく医学思想で、治療に患者が積極的に参加し、医師は患者を支え援助するものであるとする。様々な治療法を総合的に組み合わせたり、いろいろな観点から患者全体を見ていこうとするやり方。

統合医学
インテグレティブ医療といわれ、緊急医療には西洋医学、生活習慣病には代替医療というように、それぞれの得意な所を併用すればいいという現実的な考え方で、患者にとっては望ましい。原理の異なる様々の医療体系をミックスするのではなく使い分けることをワイル博士らが主張している。背景にインフォームドチョイスなどの患者の人間性を尊重しようとする患者主体思想の社会的浸透がある。

(参考文献 サンフランシスコ州立大学の保健教育学部長のホリスティックヘルスプログラムのエリックペーパーのテキストより)

来年は、この活動に積極的に関わっていきそうです。

WHA講師

12年ぶりのスーツ姿。こういうのもいいね。


OTAYORIちきりどん No.8

友人のちきちゃんが発行しているニューズレター「OTAYORIちきりどん」に紹介されました。

OTAYORIちきりどんNo.8

このニューズレターはとっても面白くていつか登場したいと思っていました。

その夢が叶いました!ありがとう!

A4裏表に情報がびっちり書かれていて読み応えがあります。しかも毎月発行しているんですよね。尊敬します。

紹介されているところはこちら・・・

OTAYORIちきりどん拡大図

文字に起こすと・・・

私事ですが、11月はお誕生月でした。30代に突入した頃から憧れていた45歳(デーモン小暮式に言うと32億45才)になりました。何か記念品を贈ろうと思いましたが、品物はあまり欲しいものがなかったので、自分に身につくものは何かな?と思い「サザエさんの街近く」に住む偉大なセラピストまぁちゃんの「ソース」というプログラムを受けることにしました。(ソースについてはソースでHPとか検索して下さい)(又は(www.uedamasatoshi.com)を)その時に、ふと話したことがあります。それは「私は高校生の時に人生の選択をしていた」ということです。本当は、きっとそのずーっと前からなんでしょうね。ティーンエイジャーの私はある日友人と自転車をぶっとばしながら「人生について」話していました。友人は「私は平凡な人生がいい」と言いました。私はこともあろうか・・・「ハランバンジョウな人生がいい〜っ♪」と。今もよく覚えています。あの時のワクワク感。とっても楽しそうに叫んだことも、キャッオーォ♪と。あれから30年弱。平凡を選択した友人は忙しく日々を過ごし(3人の子ども+夫)そしてあの頃と変わらず、ハツラツとキラキラしています。一方のハランバンジョウを選んだ私は、あまり人が体験しないことも体験してみたこれまでの道でしたが、泣いたり怒ったり、悔しかったり・・・いろいろあったことも、ネタにできるくらい楽しくユカイな今を過しています。しあわせって何だろう?マジメに考えとき、それは定義できるものじゃないないなと思いました。そして、自分のしあわせは、自分のものであって、人には当てはめられない。私がずっとうっと探し求めていたしあわせは、自分のものじゃなく、誰かが定義した誰かのものだったなと。「しあわせは いつも自分が決める」有名なフレーズですね。私は私の幸せを大切にして、そして自分以外の人のしあわせも同じように大切にする。これからの人生はそんなことを心に持ちながら過して行きたいなぁと思います。ところで、まぁちゃんの奥様がとってもCUTEな方でして・・・。今月はじめに「おやっ?」と思ったのは、私って友人の中に「ご主人の年の差があって、そかもご主人が年下」というカップルが多いんです。そして皆さん仲良しカップル。45才に憧れたその後は、そういうことを憧れの対象にしちゃおうかなぁ〜。ということも思った11月なのでした。

ソースを受けてくれて、大きな気づきを持って帰ってもらえたことが嬉しいです。

そしてうちの奥様をCUTEとだなんて♪ちなみにうちの奥様がNHKにでた時の写真を紹介。

けいちゃん

ニューズレターからちきちゃんが飛び出て話しかけてくれているかの錯覚を感じました。

ありがとうございます。僕もこのニューズレターにのって全国を駆け巡っているイメージが湧いています。

ワクワクの輪を日本に世界に広げていきたいな。

■ちきちゃんが紹介してくれたソースについてはコチラ
http://www.yoriyoku.com/source/ 

■ちきちゃんのブログはコチラ
http://vegespirit.exblog.jp/(おたよりVEGESPIRIT)
http://ameblo.jp/megumillier/ (うれしいカラダよろこぶココロ)

 


肯定するだけでカウンセリングになるのか?

満員劇場御礼座「まゆつば」を観劇した。

大笑いできる話にキラリと考えさせられる内容がさりげなく盛り込まれていた。

友人が出演したオムニバスに「肯定ペンギン」という話があり、心理セラピストとして大いなる気づきがあった。

皇帝ペンギンではなく、高弟ペンギンでもなく、肯定ペンギンなのです。

具体的には・・・

「私、モテるかな?」

「モテるに決まっているがなぁ。もうどこに行ってもモテモテ・・・」

 

「えぇ、やっぱりモテるわけないよね?」

「モテるわけないやん!鏡見たことあるんか。無理無理。やめておけ。」

 

「で、どうしたらモテるかな?」

「ん?」

というようなやり取りが続く。人間が話をしていて疑問にペンギンという設定。

何を言っても「肯定」するペンギンなのだ。自分を肯定すれば肯定してくれる。自分を否定すれば否定してくれる。意見を求めれば何も答えてくれない。

これを見ていてゾゾゾッと寒気がした。

機能しないカウンセリングを見ているような感覚なのです。

カウンセラーって話を聞き、自分の意見を言わないというのが原理原則です。

でもね、それだけだと人間味がないのです。

ただ肯定するカウンセラーに話をしていると、機械に向かって話をしているような感じがして、虚しさを感じるのです。

なぜそれが起きるのかをずっと考えていました。

人によっては、太鼓持ちのように肯定していればいいのでしょう。

ただ、僕の場合は違うのです。

それがピン!とわかったのです。

感情に共感していないということです。

自分が言っていることを肯定されても、心は動かないのです。

感情を肯定されると、心は動くのです。

ただ肯定されるだけでは、違和感が残るのです。

 

共感というのは、共に本気に真剣に考えているということ。

共感というのは、ちょっと俯瞰した位置で見守ってくれるということ。

共感というのは、共にいるということ。

 

大爆笑をしながらも、ゾクゾクっとしたのです。

ただ肯定するだけではカウンセリングとして機能しないということがわかった瞬間でした。

スキルを身につけただけでは機能しないのです。

心のことはそれくらい繊細なことなんですね。

 

肯定からすべてが始まる。でも、それだけだと何も生まれない。

人と人とが出会うことで、何かが生まれる。

そんな瞬間をセッションの中で作って行こう!

そう強く思った劇場体験でした。

北白川玉子さん、あべの金欠さんと

ゆみたまちゃんご夫妻と。すてきな時間をありがとう!

僕が自分の認識の一歩の世界を見たいと研究実践をしていると昔は哲学者がいたもんだけど、今は芸術家がいるんだよなぁ。


自分の軸を作るということ

自分の軸というのは、自分が何者なのかを知るということ。

自分はどこから来て、どこに行くのか?

ということなんです。この言葉を見ると旅人なのか?と思ったりします。

 

そうなんです。旅人なのです。

特に始めて会う人は、その人がどんな人なのかを知りたいのです。

それが軸なのです。

 

他者に自分を紹介するのにポイントになるのは、まずは自分で自分を知っていることが大切。

そして、どんな面を他者に知ってもらいたいのかが重要になります。

人間は多面的な側面があり、様々な顔を思っているとも言えるのです。その顔は良い顔もあれば悪い顔もあります。それが人間というもの。

 

日本人は自己紹介が苦手だと言われています。世界と比べてですが。

理由は簡単。もともとが村社会だったから。生まれてから死ぬまで新しい人に会う機会が少なかったのです。

いつも同じ人といると自己紹介もなにもない。だって、知っているから。すべて見ているし、見られている関係性だからです。

自分が考えていることなんて、周りは知っているから、特にコミュニケーションをとる必要もなかったのです。

 

現代では、新しい人たちと会うことが多いのです。だから、コミュニケーション能力が重要と言われたりしているのですね。

適切な自己主張をする必要があるし、他者の話を聞くことが大切になるのです。

 

自分の軸を知ることは、自分のためであり、他者のためであり、社会のためになります。

仕事をするとなると「私はこんなことができます。」と話す必要があります。

過去にこんな経験を積んで来ています。未来はこうなったらいいなと思っている。なので、現在はこんなことをしています。

自分理解と他者理解のために言語化しておく必要があるのです。

この言語化はとても重要なことです。

 

さらにこの軸について見ていくと頭で理解するだけでは足りないのです。

何が必要なのか?

それは身体です。身体に軸ができているか。

身体の中心に筋肉がしっかりついていて、それを使えているのかが大切になります。

以外と身体の外側だったり、大きな筋肉だけを使っている場合が多かったりします。

そういう人は軸がぶれたりするのです。

身体の軸と心の軸はつながっています。

健全な身体に健全な精神が宿るとはよくぞ言ったものです。

 

心と身体の専門家としては、このつながりを無視することはできません。

僕は軸がぶれがちになります。それは身体の軸ができていないことが、身体の先生から聞いてわかりました。

心の軸を作る。体の軸を作る。

研究を続けます。